以下の文章は、筆者が手がけた論文であります。400字詰原稿用紙で60枚程度のこの作品は、私が以前から関心を持っていた、「人の意識の地下世界」について考えをまとめたものです。人の意識の深いところから、こうも種々様々な芸術作品が生まれてきた事例をいくつも目にしてきて、その魂の暗い辺境を、あくまで私なりの視点でカットしてみたかった。相対的に、自分の内側ももういちどのぞき込みたかった。
もし興味を持って読んでいただけたらとても嬉しいです。
『意識の地下世界と、それが創作に与えるプロセス』
はじめに
2015年製作のイギリス映画『エクス・マキナ』で、オスカー・アイザック扮する巨大IT企業の社長・ネイサンが、企業の社員である青年に向かって、「人の意識」について説明する場面がある。
自宅の壁に掛けられたジャクソン・ポロックの『ドリップ・ペインティング』の作品に向かって、ネイサンが説明する。
―ポロックは頭を空にし、手が動くままにこれを描いた。それは作為でも無作為でもなく、その中間にある行為さ。
もし彼がこの “オートマティック・アート”の手法を使わず、“なぜ描くのか考えないと描けない”と思ったら、どうなると思う?
―…何も描けなくなる。
―まさにそうだ。人にとって本当に難しいのは「自動的な行動」ではなく、「非自動的な行動」さ。絵を描くのも、呼吸も、人を愛することだってそうなんだ。
たしかに絵を描くときや文章を書くときに、「なぜこれをしなければならないか?」と 考え出すと、当たり前だが筆を持つ手が止まってしまう。むしろ頭を空っぽにして、そこ にある流れに身をまかせようとすると、対象との関係性が、ゆっくりとではあるがおのず と見えてくる。
少しケースは違うが作家の村上春樹もこう著述している。 「ジャズのインプロビゼーション(即興演奏)を、そのまま文章を書く方法論として適応させた」。(*1) つまり、楽器を演奏するようにその流れに身をまかせているのだと思う(彼自身は文章を書くときの “楽器”を、おそらくピアノだろうと形容している)。彼の文章は流れに任せて読みやすく、また物語にも自然な勢いがあると定評がある。
その意識と無意識の境目のようなものは、いったいどのようにして区別できるのだろう? その秘密を探るには、「意識が生まれる起源」へと遡る必要がある。また、それがどのようにある種の人々に(おもに “創作行為” に携わる人々に)受け継がれていっているのか。「人類は三千年前まで『意識』を持っていなかった」という壮大な仮説を提唱した、アメリカの心理学者・ジュリアン・ジェインズの著作などを参考にしながら、この謎に著者なりの回答を加えてみたいと思う。
(*1) 村上春樹 著『職業としての小説家』の「第二回 小説家になった頃」より抜粋
第一章
・「意識」がまだ生まれていなかった頃
この世界はいつだって暗闇だ。じゃなきゃ光なんて必要ないさ
私は人の意識というものに興味がある。とりわけその心の動きと表現したらいいだろうか。
はじめてそれを意識したのはある本を読んでからのことだった。まだこの世界に電気といったものが発明されておらず、夜が世界を覆うと、文字通り世界が暗闇に包まれていた時代のことだ。人々はそれが自然の摂理のように、暗闇を心の内に引き入れていった。人の魂の暗い辺土が、深まりゆく夜の闇と溶け合っていくのは自然なことだったのだ。
その “ある本”とは村上春樹の長編小説『海辺のカフカ』だが、この物語の中で人の魂の暗い辺境について、『源氏物語』を引用する場面がある。
『源氏物語』は平安時代に書かれた小説であるが、この長大な物語の中に、人が自分でも意識しないまま「生き霊」となり、夜の暗い空間をさまよう話が出てくる。
「たとえば光源氏の愛人であった六条御息所(ろくじょうみやすのどころ)は、正妻の葵上(あおいのうえ)に対する激しい嫉妬に苛まれ、悪霊となって彼女に取り憑いた。夜な夜な葵上の寝所を襲い、ついには取り殺してしまった。葵上は源氏の子をみごもっていて、そのニュースが六条御息所の憎しみのスイッチをオンにしたんだね。
(中略) しかしこの話のもっとも興味深い点は、六条御息所は自分が生き霊となっていることにまったく気がついていないというところにある。悪夢に苛まれて目を覚ますと、長い黒髪に覚えのない護摩の匂いが染みついているので、彼女はわけがわからず混乱する。それは葵上のための祈禱に使われている護摩の匂いだった。彼女は自分でも知らないあいだに、空間を超えて、深層意識のトンネルをくぐって、葵上の寝所に通っていたんだ」
現代ではもちろんのこと、誰かを憎み、その結果相手を傷つけてしまうことには一連の「理由付け」が必要となる。金が欲しかったからやった、自分の配偶者を奪ったからやった…などなど。しかしこの『源氏物語』に収められたエピソードには “夢の中で” 特定の相手を殺している。自分でもコントロールできない憎しみの声が成就した例として、この話は単なる寓話ではなく、我々の足もとにある暗い世界の存在を、現代を生きる私たちに知らしめる効果を発揮している。
『海辺のカフカ』自体も意識と無意識の境があいまいな、混沌とした物語である。そこでは「夢を通じて」悪しきものが現実へと流れ込み、本人にしてみればそれは止めようもない。それでもなおかつ主人公の少年は「悪しきもの」を超えた「善きもの」を追求しようとする…。
この論文の主張に立ち返ると、人は芸術作品を生み出すとき、「生活レベルの意識上」では制作することが難しいと言えるのではないだろうか。光より暗い沈黙の中に、連帯より孤独の中に、きらりと光るものを探し当てる。ドストエフスキーがシベリア抑留により新しいナラティブを獲得したように、ブライアン・ウィルソンが陽気さよりその個人的な悲しみの中に音楽世界を築き上げたように。
・ジェインズ博士の壮大な仮説
『イーリアス』の登場人物に、主観的な意識も心も魂も意思もないとしたら、何が彼らを行動へと導くのか (傍線筆者)
―『神々の沈黙 -意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
アメリカの心理学者ジュリアン・ジェインズ(1920-1997)の生涯唯一の著作『神々の沈黙 -意識の誕生と文明の興亡』は、読み返す度に人の意識の深淵を深く覗いているイメージにとらわれることがある。もちろん、人はだれしも目を閉じて、その深い暗闇に身を浸すことがある。疲れたときや、行動に移す前にちょっと立ち止まってみたいとき、あるいは瞑想をするときなんかに。そこであなたは世界から一時的に隔離されて、凝り固まった自分の考えを分散させて沈黙に沈むことになる。音が反響する室内プールで、ひとり仰向けに水に浮かんでいるときのように、ややこしいことは何も考えなくていいはずだ。だがこの本を読むと、その深い暗闇がどこか“別の場所”に繋がっているという感覚をおぼえることがある。それはあなたが所有する暗闇であるとどうじに、「太古から続いている暗闇」でもある。カール・ユングならこれを「集合的無意識」と呼ぶだろうが、私はここで心理学的に人の心を解析したいわけではない。もちろん私がまだまだ(というか、かなり)若輩で、専門的な知識に欠けているということもある。だがそれ以上に、そういう不確かな人の心を、あまり型にはめて論じることに私個人としては関心がないということもあるし、むしろ歴史的な事柄や古典小説からいくつかの事例を引っ張り出してきて、「仮説」を立てるだけに留めたいと思っている。
先ほど紹介した『イーリアス』(*1)とは、確実な翻訳が行なえる言葉で書かれた人類史上最初の著作とされている。吟遊詩人ホメロスによって、口承で伝えられてきた長編叙事詩と現代の研究では判明している。ジュリアン・ジェインズは著書『神々の沈黙』の中で、『イーリアス』で描かれている登場人物たちの心情が、我々現代人の意識のあり方とまったく異なっているということを指摘しているのだ。
『イーリアス』の登場人物たちは、行動を起こすたびに、何かを思ったり考えたりすることがない。いま私たちが慣れ親しんでいる小説では、もちろん心理描写というものがあり、キャラクターたちが新しい状況に直面するたびに何かを感じたり、状況を切り抜けるために知恵を絞ったりする。ちょうど我々が現実の生活でそうしているように。しかし紀元前1230年頃と、紀元前900年頃ないし850年頃の間に制作されたとされる『イーリアス』では、そもそも意識や精神の活動に当てはまる単語が使われていないと、ジェインズは指摘する。
たとえば「psyche」という語は、後に「魂」や「意識ある心」を意味するようになるが、『イーリアス』ではたいていの場合、「血」や「息」といった生命にかかわる物質を指す。瀕死の兵士が「psyche」を地面に流したり、あるいはいまわの際にそれを吐き出したりする。「thumos」は後に、「感情に満ちた魂」といったものを指すようになるが、『イーリアス』ではたんに「動き」や「動揺」という意味だ。人間が動きを止めると「thmos」が手足からなくなる。(筆者註・このように、『イーリアス』の登場人物たちは意識という概念がないため、それらはすべて彼らの行動に制限される)
(中略) 最も重要な単語は「noos」かもしれない。後世のギリシア語では「nous」と綴られるこの言葉は、「意識ある心」を指すようになった。語源は見るという意味の「noe-ein」だ。『イーリアス』での適切な訳語は、「知覚」「認識」「視野」というところだろう。ゼウスは「ギリシアの知将オデュッセウスを自分の『noos』にとどめて」おく。オデュッセウスを自らの監視下に置くということだ。
もう一つ重要な言葉に、「meros(部分)」という単語を重ねて作られたのかもしれない「merme-ra」がある。「二つの部分に分かれて」という意味だ。名詞を動詞化させるのによく使われる接尾辞の「izo」をつけて、動詞も作られた。でき上がった単語は「mermerizein」で、「何かについて二つの部分に分けられる」という意味になる。現代文に翻訳する場合、翻訳作品のいわゆる文学としての質を重視するためか、翻訳者は原文に忠実ではない現代語や主観的なカテゴリーを当てはめることが多い。「mermerizein」も、「思案する」「考える」「気持ちがまとまらない」「悩む」「決めようとする」などと誤訳される。だが基本的には、この語は二つの思考ではなく二つの行動の狭間で葛藤するという意味だ。必ず行動にまつわるものなのだ。
―『神々の沈黙』より
これはなかなか興味深い事例だ。しかし行動あるのみの世界において、いったい何が、『イーリアス』の登場人物たちの行動を決定するのだろう。
そのものはずばり神だ。人間の王であるギリシア軍の総大将アガメムノンがアキレウスから愛人を奪ったとき、アキレウスの金色の髪をつかみ、アガメムノンを襲うなと諭したのは神の一人だ(第一歌197以降)。この神はアキレウスしか見ることができない。そして、灰色の海から姿を現し、海辺にある自分の黒い船のそばで怒りの涙にくれるアキレウスを慰めるのも神、トロイアの王子パリスの妃となったヘレネにそっとささやき、望郷の念をかき立てるのも神である。『イーリアス』に限らず、ギリシャ神話において、神々たちは登場人物たちを導き、助言を与え、決定を下す。ギリシャ詩人エウリピデスが芝居で好んだ演出技法について、「デウス・エクス・マキナ」というものがある。これは登場人物たちのあいだで混乱した状況がもたらされたときに、終幕になって神が登場し、彼らに命令し行動を決定させることで状況を解決に向かわすというものであり、神というものが絶対的な力を持っていたことが読み取れる。
*
ジェインズは『神々の沈黙』で「人類は三千年前まで、『意識』を持っていなかった」という仮説を打ち立てている。我々がいま「意識」と呼ぶもの――何かを“意識的に”考えたり、新しい状況に対して自分の頭で判断したりするもの――が生まれておらず、人の心は無意識のなかに沈んでいたという壮大な仮説である。そんなことは我々現代人の意識からすれば、とうてい信じられぬことではある。しかし、これでもかと説得性のある仮説を本著は提出してくるので、読者はそれを受け入れられずにはいられない。
『神々の沈黙』でも少し触れていることだが、優れた芸術とは、おそらく人の無意識の中にひそんでいるものだと思う。たとえばあなたが、何かとんでもなく悲しい思いをしたとき、人にその気持ちを伝えようとする。「こういうことがあって、だから私は悲しい」と。もちろん相手が心ある相手なら、それにすすんで耳を傾けてくれるだろう。しかし芸術家と呼ばれる人々は、その感情を何か別のものに「託す」作業に没頭する。小説家ならそれを物語に、音楽家はメロディに託し、画家はある種の流線に託す。その作業は頭で考えられたものではなく、おそらく無意識から紡がれていくものだ。その「託されたもの」は、あなた自身が話す「実際の出来事」よりも、うまくいけば多くの人々の支持を集めることになる。
ではその「託し方」のプロセスとは、いったいどのようなものなのか? ジェインズがここで展開する仮説を発展していく形で、芸術家がいかに無意識から作品を作り上げていくのかを説明していきたいと思う。
(*1)
『イーリアス』が吟じ手(アオイドス)ホメロスによる史実にまったく基づかない完全な創作というわけではなかった。紀元前1300年のヒッタイト語の銘板は既に発見されており、これにはギリシア人とその王アガメムノンについてはっきりと書かれている。第二歌にはトロイアに船団を送ったギリシアの国々が列記されているが、これも、考古学によって発見された国々の位置と見事に一致している。ミケーネの財宝も、かつては詩人の想像力が生み出したおとぎ話だと思われていたが、沈泥に埋もれた都市遺跡から掘り出された。弔いの様式や甲冑、たとえば精密な描写が光る、イノシシの牙をかたどった冑など、『イーリアス』に記述のあるその他の詳細も、この叙事詩と関係のある場所の発掘で正しさが立証されている。歴史的な根拠については裏付けがあるため、『イーリアス』はミケーネ時代のエーゲ海地域に織り込まれた歴史であり、心理歴史科学者によって検証されるべきである、とジェインズは述べている。
第二章
・ブライアン・ウィルソンの『ペット・サウンズ』における音楽意識
『ペット・サウンズ』を作っているあいだ、神様はいつも僕らとともにいた。
頭の中にそういう気配を感じることができた。脳の内部に。
1966年、アメリカのロック・バンド、ビーチ・ボーイズはそのキャリアにおいて分水嶺となるアルバム『ペット・サウンズ』をリリースした。アメリカでの最高位は十位というそれまでのビーチ・ボーイズにとっては思わしくない成績であり、それまで彼らの音楽に親しんできたファンにとってはある種の戸惑いを、このアルバムから感じたのだった。
前年の1965年に発表したアルバム『ビーチ・ボーイズ・トゥデイ!』ではA面がそれまでのビーチ・ボーイズの音楽性を汲んだ内容であり、まだティーンエージャーの若者たちがダンスをしたり、はじめて経験する恋愛の甘美さが描かれている。曲調はアップテンポなロックンロールナンバーだ。しかしB面にレコード盤をひっくり返し、「プリーズ・レット・ミー・ワンダー」が再生されると、このアルバムを構成するもう一つの顔があきらかになる。この曲は『ブライアン・ウィルソン自伝 (DU BOOKS)』によるとマリファナの影響で作曲されたもののようだ。どこか夢見心地でふわふわと漂い、リード・ボーカルを取るブライアンの声も自信なさげで線が細い。「please let me wonder~(ぼくを戸惑わせたままでいて)」と歌い、愛している女性の気持ちもわからず行き惑うさまは、『ペット・サウンズ』の世界への先触れと呼べるものであった。
『ペット・サウンズ』はブライアン・ウィルソンにとって新たな音楽ステージの一段上へと革新するアルバムだった。彼はこの作品を「ビーチ・ボーイズの音楽」としてではなく、「ブライアン・ウィルソン個人」としての新たな音楽表明であることを欲していたし、事実、このアルバムの作曲・編曲に関してはブライアンがすべてを仕切り、作詞は若きコピーライター、トニー・アッシャーと組んで作業を行った。ビーチ・ボーイズの他のメンバーたちは楽器演奏、ヴォーカル・パートのみに振り当てられ、メンバーとブライアンとの溝が深まるきっかけとなった。
いちリスナーとして筆者がこのアルバムの印象を述べさせていただくなら、正直言って「印象がつかみにくい」アルバムであると表現せざるを得ない。作家の村上春樹は『ペット・サウンズ』を高校生のとき初めて聴いたときのことを書いている。「それまでの『ファン・ファン・ファン』のような彼らの曲に親しんできた自分にとっては、正直、首をひねらないわけにはいかなかった」(*1)。しかし、「自分が歳を取って聴くたびに、いいなと思うところが増えてきて、その真価を少しずつ理解していった」(*2)と。つまりその真価を理解するまでには、長い時間を要する作品であると。
たしかに筆者も、このアルバムを初めて聴いたとき「なんだかとっつきにくいな」と感じたことを覚えている。アルバム一曲目の「素敵じゃないか」はキャッチーなメロディであり、聴いたときから好きになったが、それ以外の曲はそれまで自分が聴いてきたロックとは違い、まるでオーケストラのようなアレンジが施されており、歌詞も恋人との離別や、深い苦悩と孤独を歌っていた。
初めてこのアルバムを聴いたとき、私は18歳で、いまは22歳だ。『ペット・サウンズ』をCDからLPに切り替え、気が向けばターンテーブルに載せ、両面しっかりと聴く習慣がある(このアルバムを棚から引っ張り出す頻度は、年に2、3回といったところだ)。「とっつきにくい」と感じていた気持ちはすでになくなり、今ではその言葉では言い表せぬほど美しいコーラス・ワーク、魔法の森のように複雑精緻でありながら、伝えたい真実が垣間見えるオーケストレーションに耳を澄ませている。そして今では、世界中のミュージシャンがこの音楽を研究し、その天国へ昇っていくようなコーラスと、深く切実な孤独を覗かせるメロディ・ラインに、ひとりひとりの苦悩と幸福を託している。
(*1)(*2) 村上春樹著 『村上春樹 雑文集』より「余白のある音楽は聴き飽きない」から引用
*
先日、NHKで藤井風の音楽特集をやっていた。この文章を書いている時点で彼はまだ27歳だが、いまや日本を代表するシンガーソングライターとして、国内外を問わず活躍している。その海外進出の際、彼が外国のスタジオで作曲に専念するようすがドキュメンタリーされていた。(2024年 10月31日 NHKにて放映)
「藤井風」という名前を聞いたことがない人でも、そのメロディはどこかで聞いたことがある人は多いと思う。いちばん知名度が高いのはホンダのCMに起用された「きらり」という曲。この曲で一気に藤井風の知名度が上がったといっていいと思う。だれでも口ずさむことができるキャッチーなメロディ、しかし今まで聞いたことがない温もりのあるアレンジ。藤井風独自の歌唱法とそのステートメント。それまでの作品も素晴らしいが、「新しい音楽の風」がこれから吹いてくると実感できたのは、この「きらり」によるところが大きいと個人的に思う。
先ほどふれたドキュメンタリーでもそうだが、藤井風はしばしば、自分が作曲する際に「降りてくる」という形容をよく用いることがある。「降りてくる」? それはしばしば芸術家たちが形容してきたある種の状況のことであった。ひとつの循環コードをピアノで鳴らしながら、今自分が囲まれている世界を打開するひとつの “アイデア”、あるいは “ひらめき” をじっと待ち続ける。一対の眼はどこか壁の一点に集中して据えられ、暗闇から何かを引っ張り出そうとしている…。うまくいけば何かが「降りてくる」かもしれないし、そうじゃなければとりあえずピアノの前から席を立って、散歩をしたり、料理をしたりして頭を現実方向へ切り替える。
創作において何かを生み出すということは、このように暗闇の中から何かを探っていく行為であると私は思う。もちろんそんなことをしなくても、ある日ふと、何も考えずに道を歩いているときに素晴らしいアイデアが “ぽん” と浮かぶこともあるだろうが。それもとりもなおさず自分の内側にじっとまなざしを注いでいることで達成されうるものではないだろうか。自分の内側にある世界に目を向けるというのは不思議なもので、ただずっと奥のほうまで広がっているであろう暗闇がずっとつづいている “ようにみえる”。心の中の全貌が、本当に暗闇で覆われているとは誰もわからないのに。
・心の「空間化」、意識の特性
もう少し、人の意識について深く掘り下げていこうと思う。ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』の中で、意識とは「ある事物を心の中で『空間化』する特性を持つ」と説明している。これはいったいどういうことか。『神々の沈黙』でも取り上げられている例だが、この百年の間で起こったことを説明してくださいと問われたとき、ふつう今から百年前に起こったことから、順番に現在へつながるかたちで相手に説明していくだろう。今から百年前に起こったことといえば、第一次世界大戦が終結して、日本では大正デモクラシーが盛んだったころのことである。それからナチス政権が台頭してきて、第二次世界大戦に突入し、原爆投下により日本は降伏せざるを得なくなり…とこんなふうに、教室の壁に貼られた歴史年表のように、左から右へと歴史が動いていくように頭に思い浮かべるだろう。しかし時間とはそのように図式化してはかれるものではない。時間とは目に見えないものであり、我々人間が「時間」として当てはめているものは、それが人々の間で “共有されやすいもの”として、わかりやすい形で提示されているものに過ぎない。
かなり頭の中がこんがらがってくる説明だろう。もう一度、「意識」が生まれていなかったであろう時代について説明すると、彼らはつまり、「自己」というものを持たなかったというわけだ。「自己」とはその名の通り「確固とした自分、主義、主張を持っている “個人” としての自分」と説明できるだろうが、ジェインズの主張によれば、それらは三千年前までは存在しなかった。それはつまり、「個人として意思決定できない」状態であることを指す。いまのわたしたちの立場からこのような状態を想像することはとても難しいが、そのかわり、彼らに意思決定を下すのは「神」と云われる存在であった。人々は偶像を通して神の声を聴き、憑依によって神と交わった。そしてそこから人生の局面を切り抜けるヒントを受け賜わった。個人としての意識がそこに入り込もうなどとは、その時代の人々にとっては無意識と同じくらい、不可能なことであったはずだ。
しかし我々はいま、「意識」というものを明確に持っている。ごくふつうに生活する人々には、神の存在などは必要ない。自分で意思決定し、行動を下すだけだ。昔あった出来事を心の中で呼び起こし、その情景を自分なりに「抜粋」し、「空間化」する。その出来事を、そのままの「客観的事実として」思い起こすことは不可能だ。なぜなら私たちには「主観」というものがあるから。その出来事があって、楽しかったこと、悲しかったことはそれぞれ個人の記憶の「抜粋」によってまったく別の側面をみせる。ものごとを心の中で「空間化」して再現するということもそうだ。過去百年前に起こったことを、「空間化」せずに思い起こすことなど、絶対にできない。ちょうど我々が心の中を覗き込むとき、心の中に “空間をこしらえて” 暗闇がどこまでも続いているイメージを想像するように。「心の空間化」とは無意識性とは異なるものだ。ジェインズが言っているように、「意識とはつねに『空間化』の過程であり、通時的なものが共時的なものに変換される」からだ。これこそが意識の特徴であるといえる。
*
さきほどの「降りてくる」という状態について説明を戻そう。
もし「意識」というものが主観的な心であり、ある客観的事実が個人の「抜粋」によってまったく別の側面をみせるのであれば、「降りてくる」という状態はそれとは違う “行為” であるといえるのかもしれない。主観的な心の枠外、あるいは私たちが覗き込むことのできない、私たちの足元にある深く暗い世界について。その世界からのメッセージを受け取るために、創作に携わる人々は注意深くまなざしを注いでいる。
音楽家史上の類まれの天才、ブライアン・ウィルソンは、そのとどまることを知らぬ創作意欲とは裏腹に、統合失調症と鬱病に深く苛まれていたことがいまではわかっている。先述した自伝を読むと、彼は自分の頭の中から声が聞こえてきて、それは自分ではコントロールできない、と告白している。その声はブライアンの父親マーリー・ウィルソンであったり、ブライアンと一緒に仕事をしたことがあるフィル・スペクター(1939-2021 「ウォール・オブ・サウンズ」を確立した音楽プロデューサー。ビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』を最終的にプロデュースした人物としても知られる)であったりする。その聞こえてくる声のほとんどが、「お前を殺すぞ」という脅しの言葉だったり、ブライアンをなじるものであるという。父親マーリー・ウィルソンは、ブライアンに音楽家としての素地は与えたようだが、幼い頃から彼を虐待し、執拗にいじめた。ときにはマーリーは自分のガラスの義眼を取り出して、その奥まで続く空洞をブライアンとその弟たちに直視させて震え上がらせたこともあった。
ブライアンはその自伝の中で、「これまで自分が作ってきた音楽の多くは、その声を追い払おうとする自分なりの手段としてできたものである」と述懐している。音楽がなければブライアンはきっと、その頭の中で反響するエコーのはけ口をどこにも見出せなかっただろう。優れた音楽を聴き、自分の内から湧き上がる音楽を創造することは、ブライアンにとって本当の意味で世界と繋がる重要なギフトであった。
第三章
・意識下の “地下二階” について
人の意識を、住宅の階層に例えた『みみずくは黄昏に飛びたつ』という本はとても興味深い。この本は作家川上未映子が村上春樹に断続的にインタビューしたものをまとめたものであるが、村上春樹が普段では話さない創作スタイルを、熱心な村上ファンである川上未映子が深いところまで引き出していておもしろい。この本の第二章「地下二階で起きていること」で、川上は自身のイラストで、「地下二階」の説明に補足を与えている。一階、二階がふだん生活する場所で、明かりが満ちている。しかし地下一階はまだ地上の明かりがわずかに洩れているものの、地下二階になると明かりは完全にシャットアウトされ、闇が支配する世界となる。そこでは目が暗闇に慣れるまで、闇をえがく微かな光の粒子をじっと見ているしかない。
村上春樹は以前から意識の「地下二階」について言及してきた。
そもそも深い物語とは自我(エゴ)の介入しないところで紡がれるものであると村上は述べている。端的に言えば私小説が「自我の表出」というものが前提となっているのに対して、そうではないもの、つまり「向こうからやってくるもの」を形にしていくことが作家・村上春樹の仕事であるということだろう。「向こうからやってくるもの」を受け取るためには、自分の内側と、外の世界をじっと見つめる作業が必要とされる。彼がよく再読する本としてジェインズの『神々の沈黙』を挙げているが、「神の声を受け取る」とまではいかずとも、「何かを受け取る」という姿勢には村上の仕事と不思議な共通性が見出せる。
また村上は他の著書でも「地下へ降りる」ことについても言及してきた。彼の音楽エッセイ『意味がなければスイングはない』ではジャズ・ミュージシャン、ウィントン・マルサリスについて一章を割いている(『ウィントン・マルサリスの音楽は なぜ<どのように>退屈なのか?』)。 そこでマルサリスの音楽がいかに退屈であるのか、いかに深い滋養を見出す素地がないかをユーモラスに、率直に語っているわけだが、一概に彼の音楽が退屈であるとは主張しておらず、ときには素晴らしい音楽も作り出しているとも語っている。マルサリスが素晴らしいものを創り出すときは、彼が彼自身の「魂の地下室」にふと降りているから、ナチュラルな音楽の響きを見出すことができるのだと。そこでは自我もなく、ただ自分を導く風が暗闇から吹いているだけなのだと。しかしマルサリスの場合「魂の地下室」に降りる行為は非意図的であり、“自ら意図して” そこに降りてはいない。だから作品にもムラがり、優れた音楽と、そうじゃないものが出来上がってしまうのであると。
村上春樹の小説世界でも、「魂の地下」は非常に大切なモチーフであるように、私は思う。『ねじまき鳥クロニクル』では主人公は闇の世界にいる妻を取り戻すために、井戸の底に降りて周りを取り囲む壁を “通り抜け” 、別の世界への入口を見つける話だし、『世界の終わりと、ハードボイルド・ワンダーランド』では “僕” の意識が二つに分断され、それぞれの意識の世界で主人公は生き延びねばならない。なぜ彼はここまで人の意識について並々ならぬ興味を持ち、その謎を「物語として回答していく」のか?
・『地下世界をめぐる冒険』と、入れ子構造の迷路
アメリカのノンフィクション作家ウィル・ハントは、著者自身が世界各国の「地下空洞」を探索したルポルタージュ『地下世界をめぐる冒険』という本を書いている。この本を興味深くしているのはそれがただの「旅行記」にとどまらず、地下世界の暗闇について歴代の地下探検家たちのエピソードや、古典小説や哲学における「自己探索」のストーリーと関連付けて考察しているからだ。その中で第6章の「迷う ―方向感覚の喪失が生む力」では、著者自身がパリの地下納骨堂「カタコンブ」で8時間近くも暗闇で彷徨った経験をもとに、暗闇で迷うことの意味について考察している。
ハントはここで、「歴史上、さまざまな芸術家や哲学者、また科学者が、方向感覚の喪失を発見と創造のエンジンとして称えている」と書いている。「物理的な経路から外れるだけでなく、なじみの世界から逸れて未知の世界へ入り込む、という意味で」という注釈付きで。
作家ヘンリー・デヴィッド・ソローは『森の生活』で有名なナチュラリストだが、彼は「迷子の状態を、自分が世界にどのような位置を占めているのか理解するための扉」と表現している。
完全に迷うまで、自然の広大さと奇異さを理解することはできない……迷って、つまり世界を見失って初めて自分自身を見いだしはじめ、自分がどこにいるかを知り、無限に広がる私たちと世界の関係を悟るのだ
―ソローの言葉 『地下世界をめぐる冒険』より
なるほど、「迷わぬ者に悟りなし」という言葉にもあるように、妙に納得させられる言葉である。ハントは、神経学的にもうなずける話だと言う。「方向感覚を失ったとき、海馬の神経細胞(ニューロン)は環境中の音や匂いや光景をすべて吸い上げ、方向感覚を取り戻す役に立ちそうなあらゆる情報を急いでつかみ取ろうとする。不安を覚えると同時に、想像力が並外れて活発になり、周囲の環境に敏感に反応する。(中略) 暗い夜には光を求めて瞳孔が開くように、私たちは道に迷ったとき、世界に大きく感受性を開く」(ウィル・ハント)。
しかし、暗く深い迷路の中で、自身の想像力をいかんなく発揮することは非常に危険なことでもある。村上春樹の長編小説『ねじまき鳥クロニクル』がそうだ。この物語ではよく、「想像力を排する重要性」について述べている。作中で描かれている中国人捕虜を、日本軍がバットで殴り殺す陰惨なシーンでも、想像力は無駄なものとして描かれているし、主人公岡田トオルが自身の意識下にあるホテルの一室で、またもバットで「見知らぬ男」と戦闘するシーンでもそうだ。これはまあ考えてみれば非常にぞっとする話だが、戦時下においては、爆音が炸裂するなか敵軍(ときには非戦闘員)を殲滅するのは、想像力なんて必要ないはずだ。もしそんなものを持っているとしたら、とっくに精神が壊れているだろう。また主人公岡田トオルが、家の裏手にある井戸に潜り、「壁抜け」をして別の世界へと移行するまでの描写には、想像力を駆使したというよりは、むしろ “感覚” にたよっているのではないかと私は思う。何かを「想像すること」が第二章で述べたジェインズの主張「心の『空間化』」による作用であるとしたら、岡田トオルがおこなっていることは、古代人の意識のあり方「無意識性」と本質的に同じことなのではないか。
人の魂が混乱のうちに暗闇の中をさまようとき、想像力を発揮することはときに主人の足をすくませ、立ち止まらせることになる。画家ギュスターヴ・ドレが手がけたダンテ『神曲』の挿絵に、地下空洞にぬっと立ちはだかる悪魔が描かれているが、ひとりで暗闇の世界に放り出されたとき、その黒い身体を想像することが何かの助けになるだろうか?闇に慣れた旅人はそんな無益なことはせず、ただそこでじっと目を閉じて、暗闇が自分の身体に染み込むのにまかせる。期待も不安もなく、いつか暗闇に目が慣れるまで。
*
迷路的な意識を手探りで進んでいくなか、探索者を導く光が論理ではないとしたら、それは一種の啓示になるほかない。『地下世界をめぐる冒険』では、「宗教文学において、啓示が炸裂し霊的な目覚めや神秘的な覚醒を経験するのは、道に迷ったときだ」と次のように例を示している。「旧約聖書の預言者たちは神を見つける直前、砂漠で道に迷っているし、ゴータマ・シッダールタは六年にわたる苦行で生死をさまよったあと仏陀(目覚めた人の意)となった。またダンテの『神曲 地獄篇』では、道に迷ったという宣言から魂の探求が始まる。“人生の旅路の半ば、ふと気がつくと私は暗い森の中で道に迷っていた” とあるように」。
ウィル・ハントは、神経学的な観点からも、「啓示」について興味深い例を紹介する。
1990年代の終わり頃、方向感覚の喪失から生まれる力を神経科学者のチームが追跡し、脳の状態を物理的に捕捉した。ペンシルベニア大学の研究室で仏教僧とフランシスコ修道会の修道女を被験者に、瞑想とお祈りをしている際の脳を走査した彼らは、たちまちひとつのパターンに気がついた。お祈り中は脳の前方に近い “後方上頭頂小葉” という小さな領域に活動の低下があった。この特別な葉(ローブ)は、認知ナビゲーションの過程で海馬と密接に連動していることがわかった。研究者たちによれば、基本的に、霊的交換をしている脳は空間認知が鈍化するという。
(傍線筆者)
かなり乱暴な仮説かもしれない。しかしこの「霊的交換をしている脳は、“空間認知”が鈍化する」という実験結果には、ジェインズの「心の空間化」が、「“何か”を受け取る際は通用しない」ということと、やや重なる部分があることも確かだ。
啓示にもさまざまなシチュエーションがあることも確かだが、だれしも “ふと思う”瞬間があることはないだろうか。いったん作業机から離れて、部屋の掃除をしているときなんかに。そのときにふっと、何かがあなたの頭を支配する。「そうだ、これだ!」とあなたは静かな興奮とともに、おもむろに机に向かい始める(もちろん「ユリイカ!」<わかったぞ!>と叫んで入浴中の風呂から飛び出して腰布のまま往来に向かったアルキメデスのように、 異なるシチュエーションもあるだろうが)。
*
ときに、「外界の迷路」と私たちの「内側の迷路」は呼応することがある。
私たちの「内側の迷路」とは、その名のつく通り意識の底にある未知の領域だ。意識の領域では、論理性が通用して、心の「空間化」が作用する明るい部屋だ。しかし心のずっと深くにある地下二階ともなると、暗闇が支配する未知の領域だ。それが私たちの心(あるいは魂)の持つ、根源的な特性である。これは誰でも想像できるイメージだ。
しかし外の世界にも迷路もあるし、暗闇もある。『地下世界をめぐる冒険』でも紹介されているが、世界のある一定の民族には、「通過儀礼」と称して、若者が部族から切り離されて荒野や人里離れた場所や山の頂、峡谷の谷底にとどまり「放浪者」として試練を乗り越えなければならない風習がある。もしそこで行き惑えばまったくの絶望の中で死んでいくのかもしれないし、いっぽうで「放浪者」が聖なる呼び声とともに迷子状態を抜け出したら、偉大な力を得て、超自然的な存在と交霊できるシャーマンとして部族に戻ってくるかもしれない。(*1)
またアフガニスタンでは、迷宮が結婚式に中心的な役割を果たし、結婚する二人は曲がりくねった石の通路をたどる行為で結合を固める。いっぽう東南アジアの迷宮構造は瞑想の道具として用いられ、人は小道を逍遥することで思索を深める。ギリシャ神話における牛頭人身の怪物ミノタウロスを退治したテーセウスも、王女アリアドネの糸玉の糸を伝って迷宮を脱出し、大人の男、英雄として成長する。
また村上春樹の『海辺のカフカ』にも、このような台詞が出てくる。
「迷宮という概念を最初につくりだしたのは、今わかっているかぎりでは、古代メソポタミアの人々だ。彼らは動物の腸を――あるいはおそらく時には人間の腸を――引きずりだして、そのかたちで運命を占った。そしてその複雑なかたちを賞賛した。だから迷宮のかたちの基本は腸なんだ。つまり迷宮というものの原理は君自身の内側にある。そしてそれは君の外側にある迷宮性と呼応している。
(中略) 君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身の内にセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ」
(傍線筆者)
*1)ここで「放浪の旅に出る」通過儀礼を行うのは、カリフォルニア州のアメリカ先住民ピットリバー族のもの。それより下に記述した「外側の迷路」についての説明は、すべて『地下世界をめぐる冒険』から引用した。
・意識の地下世界と、それが創作に与えるプロセスについて
ジュリアン・ジェインズはこれまでの歴史ある詩人たちの言葉を引用する形で、このように書いている。
古代の慣わしのように、神からの幻聴を通じて詩を聞くことはもうない。その代わり、何かが自分に与えられ、それが育まれて生まれ出るような感覚、自分で詩を作っていながらその詩が向こうからやって来たような感覚を覚える。
エドワード・ハウスマン(1859~1936 イギリスの詩人、古典学者)は、ビールを飲んでから散歩をしているときによく、「不意にわけのわからぬ気持ちが込み上げてきた」かと思うと、詩の断片が「ふつふつと湧き出てきた」という。その後それを「書き留め、残りを頭で完成させなければならなかった」。ゲーテ(1749~1832 ドイツの詩人、劇作家、小説家)は、「歌が私を作ったのであって、私が歌を作ったのではない」と述べた。またシェリー(1792~1822 イギリスの詩人)は、ずばりこう記しているという。
「私は詩を作るつもりだ」とは誰にも言うことはできない。どんなに優れた詩人であってもそうだ。創造する精神とは、消えかかった炭火のようなもので、気まぐれな風にも似た、目に見えぬ力にかき立てられて、束の間、赤々と燃え盛る。……そして、私たちの本性を形作っている意識の部分は、その風がいつ現れていつ去るのかを前もって知ることができない。
(傍線筆者)
そもそも「最初の詩人は神々だった」とジェインズがはっきりと自説を述べているとおり、古代の住人たちが聴く神の声は「詩の形態」を取っていたという多くの歴史の証言がある。『神々の沈黙』の中で紹介されているものの中に、タキトゥス(55年頃~120年頃 帝政期ローマの政治家、歴史家)が西暦100年頃、クラロスにあるアポロンの神託所を訪ねたときの様子を記したものがある。
神託所の神官は神懸かりになり、神託を求める人の問いに耳を傾けた。それから
……神官はほとんど文字も韻律も知らないはずなのに、聖泉の水を一口飲んでから、詩で問いに答える。
神の声が民に聞こえなくなってから、韻文のリズムが神の権威(あるいはときに我々を掌握し翻弄する、自然の脅威)を伝える有効な手段となった。ジェインズが述べているように、散文では尋ねることしかできなくても「韻文なら命じることができる」。私たちが詩を読んで、恋をする気持ちに憧れを抱くのも、不安な感情に寄り添うことができるのも、詩という有効な韻文によることが大きいだろう。
*
いつしか「神の声」という概念が私たちの意識からいえば非常に胡散臭く思えてきて、宗教原理主義のテロリズムが世界に紛争を起こしている今は、とてもセンシティブな話題であると思う。だから私たちは、上に述べた詩人たちの言葉からわかるように、「ふと自分に “何か” がやってきて、やむにやまれず机に向かう」という表現がいちばんしっくりくる。その何かがいつやってくるのか、いつまでそれが「持続するのか」は、当の本人にしてみればわからない。それは芸術家ひとりひとりの裁量に任されている。しかし自分のエゴから、取り急いで何かをでっち上げることは、長い目で見ればあまりうまくいく方法ではないかもしれない。もちろん何が自分のエゴで、何がそうじゃないかはとても難しい問題なのだが。村上春樹は小説を書く基本的なスタンスとして、「小説が書きたいという気持ちがやって来るまで、我慢強く待つ」ことだと数々の著作で語っている。「物語が自分のところにおとずれるまで、待つことも小説家の仕事である」と。ここで紹介したブライアン・ウィルソンも、『ペット・サウンズ』制作中の間はとにかく取り憑かれたように仕事をしていたと、その当時スタジオにいた関係者は証言している。彼は普段の冗談も口にせず、「人が失っていく哀しみ」という言葉では足りないほどの深い物語を語ることに一生懸命だったのだ。
もしあなたが深い孤独の中で、ひとつの「天啓」というか「ひらめき」と呼ばれるものが訪れたなら、それは新しい世界へのひとつの前進であると言える。見える風景は同じでも、そこには新しい匂いがあり、新しい人のすがたが見える。もしその新しい世界に闇が降りても、その闇をみつめようとするあなたの「勇気」が、あなたを深く成長させていくことになるのかもしれない。
これまでに至るプロセスは、まあ大仰にいえば「自分を見つめるために必要な作業」として役立つものだと考えてきたが、何らかの作品をクリエイトする人々にとっても大事なことかもしれない。いずれにせよ、そこには連帯より孤独が必要とされるということだ。でもあんまり度が過ぎるとまともな生活を送ることも難しくなるため、適度に、人生を楽しみながらということだけれど…。
おわりに
人の意識については、そもそも最初から興味があるわけではなかった。
それだけ取り上げてみると、なんだか学究的で難解なような気がしたし、ましてや人の心理を解析することにも個人的に興味がなかった。「この人のこういうサインは、あなたに好意を持っているしるしです」とか、そんな一概に言えるものかしら?と少々ひねくれ気味にいぶかしんでいた自分にとっては、まさかジュリアン・ジェインズをはじめとする「人間の意識の起源」について調べることになるとは思わなかった。
しかしそのきっかけのひとつとなったのが、村上春樹の小説世界に深くのめり込んだことがはじまりだった気がする。
彼の文体は、彼自身が若い頃から英語のペーパーバックや、外国文学に親しんできたのもあってか、私小説的な情念渦巻くどろどろした文体とは大きく異なるものであると思う。読んでいてわかりやすく、前へ前へと読み進めてしまう。だが物語じたいは一筋縄ではいかず、重層的である意味難解である。この背反的なスタイルは彼がインタビューでしばしば語っているように、意識的に作り上げ、磨かれていったものであり、そのスタイルが読者にもたらす効果についていろんな形で説明してきた。一時期、私は彼の本をよく読み返していた時期があり、彼が自らの小説世界を深く語るようすに感銘を受けながら、同時に「優れた物語」を説明するにあたって「人の意識」が深くかかわっているという彼の考えに気づいてもいた。彼のインタビューをまとめた本『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』をお読みになっていただければわかるように、「物語」というものがいったいどのような影響を及ぼすのか、さまざまな実例を交えながら説明しているわけだが(例えばオウム真理教における麻原彰晃が提出した物語性、バルザックやスタンダールの世界など…) 「『物語』ってそんなに深いものだったんだ!」という純粋な発見が、彼の本からは見いだせた。だから今回、「人の意識」についていろいろ調べてみようという気持ちになったのは、心理学的な観点から出発したものではなく、「物語」という、「あるひとつの出来事に、限りなく疑問符を投げかけることによって紡がれる、非効率的な作話システム」に魅せられたからそうしたんだというのに他ならない。「物語」とは、数式の解のように明確に “ほら” と差し出せるものではない。むしろ謎+謎=謎の世界であり、際限のない問いの連続なのであると、今の時点では思う。でも、むしろそれが自然なあり方なのではないか。心の全貌なんて、すっと解明できるものでもないし。だからこそ人は誰かを愛するし、ときには混乱のうちに頭の中がもつれまくったりもする。そういう気持ちに寄り添うために物語はある。
「人の意識」についてはまだまだこれから自分の中でアップデートされていくテーマであり、この論文にはところどころ無理を通した部分もあると思う。でもここまで立ち止まって読んでくださった方には感謝を申し上げたい。
参考文献
・ジュリアン・ジェインズ 『神々の沈黙 ―意識の誕生と文明の興亡』
柴田裕之 訳 紀伊國屋書店刊 2005
・ジム・フジーリ 『ペット・サウンズ』
・ブライアン・ウィルソン 『ブライアン・ウィルソン自伝』
松永良平 訳 DU BOOKS刊 2019
・ウィル・ハント 『地下世界をめぐる冒険 ―闇に隠された人類史』
棚橋志行 訳 亜紀書房刊 2020
以下、村上春樹の著作
・『海辺のカフカ』(上・下)
新潮社刊 (新潮文庫) 2013
・『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです ―村上春樹インタビュー集 1997-2011』
文藝春秋刊 (文春文庫) 2012
・『村上春樹 雑文集』
新潮社刊 (新潮文庫) 2015
・『職業としての小説家』
新潮社刊 (新潮文庫) 2016
文藝春秋刊 (文春文庫) 2008
新潮社刊 (新潮文庫) 2019
なお、冒頭に記述した映画『エクス・マキナ』の台詞は、「NBCユニバーサル・エンターテインメント」より発売されているDVDの字幕をそのまま引用している。
松崎広幸 字幕翻訳